大人な考え方
仕事とか音楽でもそうだけど、何らかの目的があって関わっている場合、態々仲良くする必要はないと思う。
— えす (@AGFpin) 2013年8月14日
同じ目的を持った人がたまたま気があって仲良くなれればベストだろうけど、そんなのは稀。
でも世の中にはお互いのこと全然知らないくせに仲良く盛り上がってる風の人も多いからわからんなー。
小学生の頃、これに似たような考え方を示したら女教師にキレられたのを思い出しました。
当時ポケモンが流行っていて、担任のT先生が道徳か何かの授業で問題として提議した、
「あなたたちにとっての友達って、ポケモンを一緒にやるための人でしょう?そんなの友達じゃないよね。ポケモンがなかったら友達になってないんでしょ?同じクラスなら平等に仲良くするべきじゃないの?」
っていう、"友達"の概念次第の、なんとも押しつけがましいテーマ。
これに対して僕は、
「ポケモンは仲良くなるまでのきっかけの一つで、それはたまたま同じクラスになったとかたまたま一緒に鬼ごっこしたとかと同じだし、きっかけがなくて友達になってなかったらそれはそれで別にいいんじゃない?」
っていう旨の反論をしたところ、
「へーーー、そうなんだ。じゃあもういいわ」
と、T先生はブチギレ、まるで僕が薄情者みたいな感じになって授業は終了し、親に渡すプリントである学級通信に、「こんな冷たいことを言う人がいる」と書かれたのです。
ただ同じ場で過ごすっていうだけのことで、気が合うわけでもなく、自然と発生する話題もない人間と、"仲良くする"ってことを決めつけて不自然に仲良し生活するほうが、よっぽど薄っぺらく冷たいと今になっても思うのですがどうなんでしょう。
このように、大人になった今でも僕の考え方はなんにも変わらなかったわけですが、あの時のT先生の心情では、「自分の考えは正しい→子供の言い分なんて間違っているだろう→でも上手いこと説得させる術もない→そうだ!学級通信に書いて親を通じて説教しよう!」という考えがあったのでしょう。
そもそも、"子供の考え=拙く愚か"という扱い自体、大人が自分の嘘だらけの考え方を肯定するために根拠を述べずに逃げてるだけの場合がほとんどかと思いますが。
でもT先生はそんなレベルでは済まない、主観の押しつけが激しい人間でした。
ある日の給食中、僕が友達との雑談の中で、
「フグ食ったことある?」
と言ったところT泉先生が、
「ちょっと待てええぃ!今なんて言った!?食うは犬のための言葉だ!人間には食べるという言葉がちゃんとあるだろうが!!」
と、鬼の形相で言ってきたので、この頃僕はもう豊泉先生のことを異常者と判断しているし、そこは反論もせずに
「はあ・・・じゃあ、フグ食べたことある・・・?」
と、意気消沈して楽しいムードをぶち壊されたことがあります。
その日も学級通信に書かれました。
「学級委員長ともあろう人が食うという言葉を使っていた」と。
当時僕は学級委員長という、いきものがかりと同列で誰でもなれる係に就いていたのだけど、そんなの全く影響力もないし、わざわざ書く必要はないので、あれは「あの子は下品な子だ」と、個人を特定させて父兄からのイメージを下げるための卑劣な攻撃だったのだと思います。
こうして思い出してみるとやっぱりあの教師がおかしい。顔も怖いし。
寄生獣という漫画に出てくる「Aさん」みたいな、四白眼とでも言うのかな?目を見開いた感じの。
異常者っぽい、とか言っちゃうと塩爺みたいな偏見になってしまうけど、子供から見たらルックスからくる印象は強烈で、「あの異常者っぽい先生がおかしいこと言ってる、だからあの先生が言うことは全ておかしい」みたいな先入観が積み重なり、本来おかしいと思わないことさえもおかしいと思うようになってしまった可能性ももしかしたらあるかもしれませんが・・・。
そんなわけで、大人はよく見下してる人間に対して"大人"という言葉を使ったりしますが、概ねそれは自分を肯定するために都合良く使われているので、その言葉自体にはなんの説得力もないと思いますね。
"大人"であることが正しいと思うか思わないかは、あなた次第です!